自由民主党について

38年の長期政権を独占した近年までの日本の象徴的な政党。

データ

総裁谷垣禎一
副総裁大島理森
幹事長石原伸晃
成立年月日1955年11月15日
議席数 衆議院 (480)118
参議院(242)84
合計(722)202
おもな政策・思想
  • 所得倍増計画(池田)
  • 沖縄返還(佐藤)
  • 日本列島改造論(田中)
  • 国営企業の民営化(中曽根)

略歴

吉田茂時代のワンマン政治に嫌気がさした国民の支持は、社会党に少しずつ流れ込んでいった。自民党の派閥は、結党時は8派閥が存在し、マスコミから「八個師団」と称された。

1955年、結党後の総選挙では、定数467のうち、自民党は追加公認を併せ298議席を獲得。ライバルの社会党も167議席を奪い、まさに2党による「55年体制」が幕を開けた。

1951年に結ばれた日米安保条約は、自民党の岸信介内閣によって改定の交渉開始。

1960年1月、岸以下全権団が訪米。アイゼンハワー大統領と会談するも、新条約締結は困難を極めた。混乱の中、新安保条約は6月に成立。岸内閣は国会の混乱を収拾するため、新安保条約の批准書交換の日である6月23日に総辞職した。

1960年の安保闘争、岸内閣の退陣後、抗議活動は急速に止んでいった。池田隼人内閣は、国民に「政治」から「経済」へ意識を向けさせ、「所得倍増計画」を進めた。

安保闘争で荒廃した人心を立て直すには、国民が経済的豊かさを実感する必要があると考えた。所得倍増の具体的な施策として、①毎年1千億以上の減税、②公社債市場の整備、③道路や鉄道の輸送力の強化、④科学技術振興などを掲げた。

かつて「貧乏人は麦を食え」の放言で有名になった池田。側近から注意されつつ、終始低姿勢かつ国民目線で訴えたことで支持率は上昇。

1960年11月の選挙では、296議席を獲得。党内の派閥抗争が高まった時期もあったが、結局、池田は総裁選で3選を果たし、長期政権を予感させた。

1964年に病気が発覚。東京オリンピック閉会式翌日に辞職を発表した

池田の後を受けて、佐藤栄作。佐藤政権は、総理大臣在位7年8ヶ月という本格的長期政権であった。歴史に残る業績は、「沖縄返還」。独立国家としての主権回復運動に貢献した。

長期政権に伴うひずみといえるような不祥事や、業者との癒着。いわゆる「黒い霧」が佐藤政権を覆い、国民に不信感を募らせた。

1966年には、「国会の爆弾男」の異名を持つ自民党の田中彰治が、決算委員長の地位を利用して恐喝や詐欺で逮捕された。

また、佐藤政権の長期化は、二世議員の増大という現象をもたらす。ちょうど、戦後に当選した政治家が引退する時期を迎えていた。政治家が引退したあとの後援会側が、その組織維持を図るため、政治家の子息や娘婿に選挙地盤を引き継がせることが少なくなかった。

自民党のうち二世率は、1960年の12%から、1968年には23%と倍増している。そして、このあとも二世率は上昇していく。のちにキーパーソンとなっていく、橋本竜太郎、小沢一郎、羽田孜などは、1960年代から1970年代初頭にかけて当選した世襲議員である。

「人事の佐藤」といわれるほど党内人事に慎重だった佐藤だったが、二世議員の増加によって、多様な人材を政界に送り込むパイプを限定してしまう結果となった。

1972年6月、佐藤は辞意を表明。長期政権に幕を閉じた。

後継の自民党総裁の座をめぐっては、国土開発の重要性を説いた「日本列島改造論」を発表し、総裁への意欲を見せていた田中角栄と、佐藤内閣の有力な後継者とみなされていた福田赳夫が、争った。

最終的に、決選投票で田中が勝利を収め、権力の座を射止めた。田中は新潟県出身で、高等小学校卒業後に苦学しながら土木建築業に従事した苦労人。二世や官僚出身が主流となっていた政界では、異色の政治家であった。

1972年9月、日中国交正常化共同声明で業績を残す。長年の懸案であった日中関係の改善を成し遂げる。しかし、国際環境に翻弄された側面も否定できない。

1973年10月には第四次中東戦争が勃発。湾岸諸国による原油の値上げ(第一次オイルショック)が無資源国である日本を襲った。

「今太閤」「コンピューター付きブルドーザー」と呼ばれた田中の国民的人気は高いように思われたが、選挙には反映されなかった。

1972年12月の総選挙の結果、前回の288議席を大幅に下回る、271議席にとどまる。脱官僚による「政治主導」スタイルを目指したが、ロッキード事件などによる「政治とカネ」の問題で、田中政権は撃沈。

1974年12月、田中の後継に、三木武夫内閣が誕生。「政治とカネ」問題の浄化につとめた。とくに、田中角栄が逮捕されたロッキード事件対応に多くのエネルギーが費やされた。

1975年7月に政治資金規正法を改正。

1976年2月には、衆院予算委員会で航空機売込みをめぐる対日贈賄工作疑惑、ロッキード事件の追及がはじまる。失脚したとはいえ、田中は隠然たる力を持っており、逆に三木下ろしの声が強まった

1976年7月、田中角栄はロッキード事件で東京地検特捜部に逮捕される。

1976年12月、三木は総選挙で初めて自民党の過半数割れを起こし、責任を取る形で退陣を表明。次に総裁に指名されたのは、福田赳夫。何度も行く手をはばまれながら、ついに念願の総裁の座を射止めた。

福田内閣の主な仕事は、金権体質と派閥抗争の一掃。これは、三木内閣からの継続事案。与野党勢力が伯仲する中で、内政的には仕事らしい仕事はしていない。

1978年、田中派が派閥を復活させ、派閥抗争が活発化する中で福田は退陣。大平正芳内閣が誕生する。大平正芳内閣は、混乱の様相が色濃く出た時期である。

1979年9月には、内閣不信任案が提出されて衆院を解散。総選挙の結果、前回を1議席下回る248議席にとどまる。敗因は、一般消費税導入を示唆し、国民の反発を買ったこと。(選挙前に増税を示唆することは、これ以降タブーとなった)

この選挙結果をめぐり、大平下ろしの動きがにわかに起き、退陣要求をめぐる派閥抗争が激化。いわゆる、40日抗争。

1980年5月、大平は、野党提出の内閣不信任案が、福田派などが採決に欠席したため可決。衆議院を解散、衆参同日選挙となる。

総選挙のさなかに大平は死去。弔い合戦となった結果、自民党が衆院で284議席を獲得して大勝した。大平のあとに登場したのが、鈴木善幸。鈴木が目指したのは、党内融和。

1972年の田中と福田の激突以来続いていた抗争は、結果として国民不在の政治を招き、自民党の支持率低下の要因にもなっていた。

佐藤内閣下では佐藤の巧みな人事で派閥対立は抑制されていたが、その終焉とともにパンドラの箱が開くように派閥抗争が活発化。権力を目指す政治家にとって派閥抗争は活力源にもなる。一方で、コップの中の争いに矮小化され、結果的に取り巻く環境の変化や世論のニーズに鈍感になってしまった。

鈴木内閣が取り込んだのは、行政改革と財政再建。しかし、1981年度の歳入欠陥が2兆円を超えることがわかると、行革に本腰を入れる前に鈴木は総裁選への不出馬宣言をして、政権を退いた。後継は、中曽根康弘。5年間続いた久々の長期政権となる。

1982年11月の自民党総裁予備選で圧勝した中曽根。激変する国際環境に適応するため外交に力を入れる。とくに日米関係では「ロン・ヤス」関係と言われるほどの蜜月関係を、ロナルド・レーガン大統領との間に築き上げた。

1983年12月の総選挙では、苦戦を強いられる。ロッキード事件で田中元首相に実刑判決が下された影響で、前回の284議席を大幅に下回る250議席にとどまった。

選挙で苦戦したとはいえ、行政改革は進んだ。電電改革3法案や、国鉄改革関連8法案が相次いで成立。国営企業の民営化が進展した。

中曽根内閣は発足4年目の長期政権にも関わらず、50%を超えることもある高い支持率を保っていた。矢継ぎ早に打ち出す行政改革や、経済構造改革などがその理由。

1986年7月の衆参同日選挙では衆院で300議席を獲得する大勝利となった。

1987年10月、中曽根首相の裁定で竹下登幹事長が次期総裁に指名され、首相となった。竹下内閣以降、自民党は財政再建という大きな課題を背負いながらも、相次ぐスキャンダルで国民の支持を失い、結党以来38年でついに政権を初めて手放す事態を迎える

竹下らは1985年に反旗を翻して創政会を旗揚げ。まもなく田中が脳梗塞に倒れ、竹下が自民党第一派閥の座を手にする。ただその後、大型スキャンダルに見舞われる。

1988年のリクルート事件である。リクルート社から官界、政界に幅広く未公開株や巨額の政治献金が行なわれていたことが連日のように報道。竹下自身の疑惑も表面化。

1989年4月、予算成立後に竹下は辞職を発表。竹下をめぐっては秘書が自殺する騒動にも発展。各自治体に1億円を提供し、ふるさと振興に役立ててもらおうという趣旨の「ふるさと創生」。資金のバラマキによる政策効果を疑問視された。

竹下の後を継いだのが、宇野宗佑。しかし、首相就任後まもなくして女性スキャンダル発覚。直後に行なわれた参院選で歴史的敗退を喫した。しかも、自民党は過半数を取れなかったため退陣。宇野政権は短命に終わった。

後継に、クリーンさがとりえの海部俊樹内閣が発足。幹事長は小沢一郎。発足当初の内閣支持率は約40%。

1990年7月のヒューストン・サミットのころには60%を突破。最大の難関とされた湾岸危機、湾岸戦争への後手後手の対応から40%台に落ち込んだ。それでも何とか政権を維持したが、日本の政治が、国際危機に適切に対応できないことを証明し、自民党政治の限界を感じさせた。

1991年10月、海部のあとを受けて宮沢喜一内閣が発足。結党以来、初めて下野する役回りを引き受けることになる。政権発足当初は55%と高い支持率。しかし、PKO協力法案の審議でつまずくや、雲行きが怪しくなる。きっかけは、またもスキャンダルだった。

1992年1月、元北海道開発庁長官が鉄骨メーカーから多額の賄賂を受けていた収賄事件。

1992年8月、東京佐川急便元社長が金丸信自民党副総裁に5億円を裏献金ししていたことが発覚。金丸は受領を認めて副総裁を辞任。宮沢内閣支持率は、20%前後と低迷する。

金丸辞任後の竹下派会長のポストをめぐって、同派は小沢グループと反小沢グループが激しく対立。反小沢派の小渕恵三が会長に就任。小沢グループは政策集団「改革フォーラム21」を結成。

1993年6月に野党が提出した内閣不信任案に賛成、衆議院は解散。総選挙では、自民党から脱党した小沢グループによる新政党「新党さきがけ」が出た。自民党は追加公認含め228議席を確保。第一党を維持したものの、過半数にはいたらなかった。

結局、日本新党の細川護煕をリーダーにした連立内閣が誕生。自民党は38年間の単独政権の歴史にピリオドを打った。

野党に転落した自民党は、河野洋平総裁もと、早くも復活を画策。これまで敵対していた、社会党の村山富市委員長を首相に推す「ウルトラC」をみせる。

1994年6月、社会党、さきがけとの連立政権として与党に復帰。

1996年1月、橋本竜太郎首班となり、第41回総選挙では、過半数にこそ満たなかったが239議席と健闘。非自民連立政権側の新進党への引き抜き工作で、過半数を回復。

1998年には社会・さきがけとの連立を解消し単独政権となる。

1998年の第18回参院選で過半数確保に失敗。

1999年、自由党、公明党との連立政権を組む

2000年には自由党の離脱。自由党から分裂した保守党との自公保連立政権に変わった。当時の首相であった小渕恵三の死去で、森善朗が後任するも、国民との信頼関係に溝が生じ、総辞職。

2001年に小泉純一郎内閣が発足。財政再建を目指す。無駄を徹底して削り、資金の流れを「官から民」に移す。「聖域なき構造改革」を主張。具体的には、郵政事業や道路公団の民営化が対象となった。

従来型の「大きな政府」から「小さな政府」を指向。予算のバラマキが抑制され、自民党の基盤だった地方が疲弊し、権力基盤を弱めることにもなった。北朝鮮に電撃訪問して拉致被害者を取り戻し、支持率アップに寄与した。

2005年8月、郵政民営化の是非を問うた「郵政選挙」。メディア戦略をたくみに打ち出したことが奏功し、歴史的圧勝をおさめた。

小泉内閣以降に総理となった安倍晋三、福田康夫、麻生太郎は小泉政治の遺産に苦しめられた。とくに、地方での小さな政府路線への反発や「消えた年金」問題などで支持率を落としていった。

2007年の参院選で敗北を喫した自民党は、「衆参ねじれ国会」で苦しみ、政策決定のスピードを欠く始末となる。政権交代の瀬戸際に立たされた。

2008年9月、4度目の総裁選挑戦で初めて当選した麻生太郎は「骨太の方針」などの景気対策を打つが、「100年に1度」といわれる世界大不況の前に防戦一方となる。定額給付金、エコポイントの実施も、焼け石に水。低迷した支持率を上昇させることができなかった。

2009年8月の衆院選。首相経験者や大物議員が相次いで落選し、獲得議席数は119議席にとどまる。歴史的大敗を喫し、民主党に政権の座を明け渡した。それに伴い、将来に失望した議員たちの離党が相次いだ。

谷垣禎一総裁のもと、鳩山政権で相次ぐ「政治とカネ」問題、沖縄米軍基地移設問題をめつる迷走などを攻撃するも、決定打を欠く。