民主党について
2009年8月の衆院選で、念願の政権交代を果たした政党。自民党から政権を奪うために集まった政治家たちの集団。
データ
代表 | 野田佳彦 | |
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副代表 | 山岡賢次 北澤俊美 直嶋正行 田中慶秋 | |
幹事長 | 輿石東 | |
成立年月日 | 1996年9月17日 | |
議席数 | 衆議院 (480) | 302 |
参議院(242) | 106 | |
合計(722) | 408 | |
おもな政策・思想 |
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略歴
1996年9月に結党。その理由は、新党ブームでの埋没をおそれた寄せ集め的な政党でもあった。スタート時は衆院議員52人、参議院議員5人の計57人。
第41回衆議院議員総選挙が、結党直後に行なわれた。そのときに掲げた3つの重点公約は、①行政改革の断行、②市民政治の復興、③福祉社会の再創造である。選挙結果は、選挙前と同じ52議席の確保にとどまる。
当時の民主党は、国民的人気の高かった菅を表看板としながら、資産家の鳩山がバックで支えるという「2人代表制」であった。
1997年9月、民主党は2人代表制を変更。菅代表、鳩山由紀夫幹事長のかたちとなる。
1998年4月、院内会派「民主友愛太陽国民連合」(民友連)に名を連ねていた旧民主党、民政党、新党友愛、民主改革連合が合流して新党結成。形としては、旧民主党が各党を吸収した。
現状維持に成功した民主党に比べ、小沢率いる新進党は第41回衆議院議員総選挙で議席を減らす。党の求心力は急激に衰えて、離党者があとを絶たなかった。
1997年12月末、苦境に立たされた小沢は、党再生の選択肢をあきらめ、突然の解党宣言。党は霧散霧消し、小党に分割される。小沢率いる「自由党」、反小沢グループの「国民の声」、旧民社党系の「新党友愛」、旧公明党衆院議員の多くが加わった「新党平和」、旧公明党参議院議員の「黎明クラブ」、自民党出身で公明党との関係が深いとされたグループによる「改革クラブ」である。
その後、菅代表、羽田孜幹事長でスタート。議員の規模は、衆議院93人、参議院38人の計131人。
政策や理念がばらばらな勢力が新民主党に集結したのは、「数の論理」の鉄則によるもの。新民主党の顔ぶれは、保守系、革新系、旧社民党系、市民運動出身者などで考え方はバラバラであった。千差万別
「行政改革」「地方分権」「政権交代」を掲げ、自民党に代わる政権政党となることを訴える。しかし、自民党からは挑戦者とみなされず、いまだ寄せ集め政党の域を出ていなかった。
1998年7月の参院選では、10議席増の27議席を獲得。選挙では確実に勢力を拡大を成功させた。参議院では与野党が逆転。「ねじれ現象」が生まれた。
1998年8月〜10月、国会では、破綻が相次いだ金融界をめぐる処理が主な争点となった。いわゆる「金融国会」。
菅代表の性格に起因する、党内不満の声。部下のミスに厳しく、気に入らないことは当り散らす性格のため、リーダーとしての資質を疑問視する声もあがったという。
1998年11月には、菅代表のスキャンダルが発覚。女性キャスターとの不倫疑惑が週刊誌で報じられた。
1999年9月、党内には「反・菅」の空気。資金供給源で民主党の影のオーナーといわれた鳩山由紀夫が代表選に出馬。182票対130票で、鳩山に軍配があがる。鳩山代表、羽田孜幹事長。
2000年6月の第42回衆院選では、前回に比べ30議席以上も上回る127議席に党勢を拡大する。その後、自民党の小渕恵三首相が脳梗塞で死去。密室で決まった後任の森善朗首相による「神の国」発言で、支持率が急降下したのが勝因だといわれる。
2000年9月、鳩山は代表に再選。党内人事を本格的に刷新した。鳩山代表、菅幹事長体制スタート。
2001年3月、森首相が自民党総裁選前倒しを提案。事実上の辞意表明である。その後、総裁選で、小泉純一郎が圧勝し、首相に就任。外務大臣には、かつて国民的人気の高さを誇った田中角栄の娘、真紀子を起用。
2001年7月の参院選では、自民党が圧勝する。選挙公約で、①道路特定財源の一般財源化、②ダム建設の一時凍結などを新たに盛り込むも、小泉旋風に太刀打ちできない民主党であった。
2002年9月、任期満了に伴う民主党代表選挙が行なわれる。鳩山が、かろうじて菅を振り切って引き続き代表となる。幹事長には、中野寛成を起用。しかし、小泉自民党になすすべのない鳩山体制への不満から、党内の不協和音は高まっていった。
鳩山が自由党との新党構想を進めたことで、党内はさらに混乱。責任をとる形で鳩山は代表を辞退。
2002年12月、菅と岡田で代表選。岡田優勢の下馬評も、104票対79票で菅に軍配が上がる。菅体制の発足により、対立関係にあった熊谷弘ら衆議院議員5人が離党。保守党の残党と合流して保守新党を立ち上げた。
菅代表、岡田幹事長の新体制が発足。小沢一郎率いる自由党との統一会派結成に奔走。
2003年7月、合併合意書が交わされ、民主党傘下に自由党が入る。この合併で、事実上、民主党が二大政党の一角となった。
結党から7年。自由党との合流で、国民的人気の「菅」、選挙の「小沢」、資金力の「鳩山」という、政権奪取を可能とした民主党の核ができあがった。さらに、この合併によって、衆議院137、参議院67の計204議席を擁するまでに党勢を拡大させた。
2003年11月、第43回総選挙が行なわれ、民主党は日本初のマニフェストを掲げて選挙を展開。それが奏功し、改選前を40議席上回る177議席を獲得。ところが、「年金国会」と呼ばれる落とし穴があった。
2004年に入ると、年金制度をめぐる国会審議が本格化。相次いで有力政治家の年金未納問題が発覚する。小泉政権の閣僚3人が年金未納だったことが判明し、菅代表は彼らを「未納3兄弟」とこきおろした。
ところが、菅自身の年金未納が明らかになり、責任をとって代表を辞任する。その後、党内では小沢待望論がもち上がるも、小沢自身が年金未納時期があったことを公表し代表就任を辞退。岡田克也が初の代表の座に就く。
2004年7月の参院選では、50議席を獲得。国政選挙において、はじめて自民党に勝利した。一種の「岡田ブーム」が起こり、党内の世代交代を促進した。
2005年8月、小泉は「郵政民営化の是非を問う」として衆議院を解散。9月11日の投票日、自民党は296議席を獲得。歴史的大勝をおさめる。自民党の革命児にしてやられた岡田は、責任をとって代表の座を辞任。
後任の代表は、前原誠司が96票対94票で菅を破り、新代表に選出された。前原は、従来型の「何でも反対」という対決型の野党ではなく、政策論争を中心に対案を出しながら、政権交代可能な野党を演出。労働組合依存からの脱却をスローガンとして打ち出すなど、新しい民主党の建設に着手した。
2006年1月に招集された通常国会は、自民党攻撃の材料に満ち溢れていた。元建築士による「耐震偽装問題」、防衛施設庁幹部が逮捕された「官製談合事件」、堀江貴文社長が逮捕された「ライブドア事件」などで自民党を攻め立てたのだ。
そして、「偽メール事件」。ライブドアの堀江元社長が、自民党幹事長の次男に対してコンサルタント料の3000万円を振り込むよう指示したメールの存在を暴き、自民党に詰め寄る。
マスコミでは大騒動になったが、そのメールが誤りだったため、議員辞職するスキャンダルに発展。「情報収集体制の弱さ」と「危機管理能力の欠如」などが指摘され、前原は責任をとって代表を辞任。
2006年4月、菅に119票対72票で勝利した小沢一郎が新代表に就任。「変わらずに生き残るためには、変わらなければならない」という言葉を残した。
そしてまず手をつけたのが、反「小泉構造改革」路線。予算削減でしわ寄せを受けたとされる分野への対策。とくに、小泉政権下では軽視された「農家への個別所得保障」など、農業分野での所得の再分配を行なうことを掲げた。
地方組織が磐石ではない民主党。政権交代を可能にするには、都市部で無党派層に依存するだけでは限界がある
。そのため、自民党が浸透している地方を切り崩す必要があった。地方での徹底したどぶ板選挙を新人に指導し、地元活動の重視を求めた
2007年4月、その地方工作が奏功し、統一地方選挙で勝利を収める。
2007年7月の第21回参院選でも、改選前を28議席も上回る60議席を獲得して大勝をもぎ取った。衆議院では自民党、参議院では民主党が優勢を保つ「ねじれ国会」が生じる。国会運営に行き詰まった自民党の福田康夫首相は、小沢に大連立構想協議を持ちかけるも、民主党は反対一色を示す。
混乱を起こした責任をとって、小沢は代表の座を退く意向を明らかにする。しかし、周囲の猛烈な説得工作で、引き続き代表にとどまった。
2008年に入ると、暫定税率をめぐるガソリン国会で衆議院と参議院にねじれが生じ、暫定税率は一時的に廃止。1ヶ月間だけガソリン価格が下落した。
2009年3月、裏金の使途を洗っていた東京地検特捜部は、西松建設がダミー団体を使って小沢側にヤミ献金をしていた疑いが強まったとして、小沢の公設第一秘書を逮捕、起訴した。小沢側は容疑事実を否定した上で、検察側と真っ向勝負を挑もうとした。しかし、党内外の衝撃は半端ではなかった。
2009年5月、小沢は代表を辞任。後任には、岡田との接戦を制した鳩山が代表に就く。党内にしこりを残さぬよう、岡田を幹事長にあてがう。
2009年8月30日、第45回衆議院選挙の投開票日。308議席を確保し、政権交代を実現した。
2009年9月、第172回国会で、鳩山由紀夫内閣が正式に発足。小沢は党幹事長として復活する。社民党、国民新党との連立政権が誕生した。
鳩山内閣は、政権交代の高揚感から、支持率は70%以上。ニューヨークに入り、環境外交でイニシアティブをとるため、「2020年までに温室効果ガス、1990年比25%削減」という目標を表明。予算についても、補正予算2.9兆円の執行停止を閣議決定
2009年11月には事業仕分け作業をスタート。独立行政法人などに流れた無駄な予算に大ナタを振るった。さらに、小泉政権で民営化された郵政事業について、見直しを行なった。その象徴的な人事として日本郵政新社長に斉藤次郎(元大蔵次官)の起用を内定。
ただ、鳩山首相の「政治とカネ」をめぐる問題により、幸せな時間をすごせたのは、ハネムーン期間の約3ヶ月だけだった。鳩山は政権交代前の6月の記者会見で資金管理団体の偽装献金を認め、関与したとされる公設第一秘書の解任を発表。
2009年12月、元秘書は在宅起訴、元政策秘書は略式起訴、鳩山首相は不起訴となった。ところが、実母から毎月1500万円の資金提供を受け、その一部が政治資金に充当されていたことが発覚。
結局、資金提供は12億円あまりにのぼり、その分の贈与税約6億円を納付することで事態の収集を図った。年明け、野党からは「平成の脱税王」と揶揄され、「毎月1500万円の子ども手当てをもらっている」と皮肉を言われた。
2010年1月に入ると、幹事長だった小沢の資金管理団体「陸山会」をめぐる、政治資金報告書の虚偽記載問題の疑惑が浮上。東京地検特捜部は、土地購入をめぐる4億円の記載をめぐって帳簿上で不可解な操作が行なわれていた疑いがあるとして、元秘書の石川知裕らの逮捕に踏み切った。
2010年2月、石川議員らは起訴されたが、小沢は不起訴となった。
2010年4月、無作為に選ばれた有権者から構成される東京第5検察審査会は、小沢の起訴相当を決議。
2010年5月、東京地検特捜部は小沢を再度聴取した上で、改めて不起訴処分を出した。しかし、検察審査会が再度、起訴相当を決議すれば、小沢は強制起訴となり、法廷に立たされることになる。
政権蝕む「内憂外患」として、「政治とカネ」の問題(内憂)と、米軍普天間飛行場の移設問題(外患)がある。とくに普天間問題は、一歩誤ると社民党の連立離脱もありうる重要な問題。にもかかわらず、県外移設を断念。
2010年5月30日、社民党は連立からの離脱を決定。さらに沖縄県民からの激しい反発を招いた。発足当初70%以上合った内閣支持率も、20%を割り込み、政権維持が困難となる危険水域に入る。
2010年6月2日、鳩山首相は退陣の意向を表明。6月4日に内閣総辞職した。最高実力者の小沢も道連れのように幹事長職から退かせ、支持率低迷につながる2人のカラーを消し去った。
⇒公認に党再生を託した
2010年6月8日、菅内閣が正式に発足。幹事長には、枝野幸男を抜擢。官房長官には、政界通で知られるベテラン仙谷由人を起用。なんとか支持率をもち直す。さらに、事業仕分けの作業風景を毎日のように報道。その主役を演じていた蓮舫を、行政刷新大臣に起用する。
郵政民営化の見直しに向けた郵政改革法案の成立を訴えてきた国民新党の亀井静香郵政改革・金融相が辞任。しかし、国民新党との連立崩壊は回避。
菅内閣は、野田佳彦財務相や仙谷官房長官ら「消費税増税派」が顔をそろえた内閣。増税を原資にして政府支出を拡大し、環境、介護、医療などの成長分野に雇用と需要を創出し、デフレ脱却を目指す戦略を描く。