社会民主党について
1996年、日本社会党が改称して発足。党首は、日本で唯一の女性党首、福島みずほ。社民党に名称変更する前の日本社会党は「万年野党」などと呼ばれていたことも。
データ
党首 | 福島瑞穂 | |
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副党首 | 又市征治 | |
幹事長 | 重野安正 | |
成立年月日 | 1996年1月19日 (日本社会党は、1945年) | |
議席数 | 衆議院 (480) | 6 |
参議院(242) | 4 | |
合計(722) | 10 | |
おもな政策・思想 |
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略歴
1996年に日本社会党が改称して発足
党首は福島みずほ⇒日本で唯一の女性党首
議会勢力としては中道左派を継承
2010年5月まで民主、国民新党と連立政権を組んでいた
⇒米軍普天間基地移設問題で路線対立が表面化し、連立を離脱
「55年体制の一角」としての前史
社民党に名称変更する前の日本社会党
1955年10月、労働運動の高まりを受け、サンフランシスコ講和条約をめぐって分裂していた
1955年11月には保守合同による自民党が誕生
1958年5月の総選挙で166議席を獲得
⇒自民党の287議席に及ばなかった
20世紀後半の日本政治史を彩った55年体制
1960年代に入ると、労働食い合いを支持基盤とする社会党は、議席を伸ばすことができなかった
伊藤惇夫(政治アナリスト)
『政党崩壊』
「(社会党は)労働組合に全面依存しつつ、党内のイデオロギー闘争に明け暮れる。政権獲得の意思を持たないから、非現実な政策を掲げ、与党に対しては『反対のための反対』を繰り返す。その裏では、自民党との『住み分け』を固定化し、野党第一党の座に安住しつつ、国体政治に象徴される自民党との『裏談合』によって政治の空洞化を定着させていく。政権獲得意欲を持たないくせに、野党第一党の地位だけは確保し続けた社会党の存在が、結果的に自民党の38年間にわたる長期一党支配を生み出し、戦後の日本人から政権選択のチャンスを奪い取ったのである」
当時、支持を集めていた非武装中立、自衛隊反対といった主張が、時代の流れの中では実効性を持ち得なかった
⇒社会党を政権から遠ざける大きな要因の一つ
政権交代の頓挫から万年野党へ
敵失による追い風
政界を金権政治のイメージ一色に染め上げたリクルート事件
1989年の参院選は、党内で頭角を現していた土井たか子が率いた
⇒女性候補を積極的に擁立し、改選議席数の倍以上を獲得する「マドンナブーム」を巻き起こした
土井「山が動いた」
1990年の総選挙
議席数は改選前より51議席上回る136に上った
⇒自民党は追加公認を含め安定多数の286議席を獲得⇒政権獲得ならず
党勢回復の雰囲気に「万年野党」の烙印が押される
1990年に起きた湾岸戦争では自衛隊の海外派遣に反対するだけで、具体的な代替案を打ち出せなかった
⇒「反対のための反対」
1991年の統一地方選で惨敗
⇒土井は委員長を辞任
1993年、自民党分裂に伴って誕生した非自民の細川政権に参加、与党に加わった
⇒その後、小沢一郎らによる社会党抜きでの新党構想に反発し連立から降りた
エネルギーを吸い取られた村山内閣
1994年、社会党は、野党生活からの脱却を図っていた自民党との連立政権を取るという「奇策」に打って出る
⇒村山富市が首相にかつがれる
村山は一気に現実主義路線を余儀なくされた
⇒「自衛隊反対」は「自衛隊合意」、「日米安保反対」は「日米安保は不可欠」、「脱原発路線」は「原発容認」などなど
55年体制時代から堅持してきた政策スタンスを大きく変更
⇒支持率は40%前後を維持するまずまずの政権運営だったが、社会党への求心力は大きく損なわれた
1995年に入ると、風向きが変わる
阪神淡路大震災⇒未曾有の規模で起きた地震
⇒村山のリーダーシップの欠如が批判された
オウム真理教による地下鉄サリン事件
⇒危機管理のあり方が厳しく問われた
1995年7月の参院選で、社会党は、改選41議席を16議席に大きく減らした
惨敗の要因
村山が社会党の根幹である平和主義路線を転換させ、なおかつ、現実問題への対応能力を欠くことをさらしたこと
村山内閣は、戦後50周年にあたり、「村山談話」を発表
⇒過去の「侵略」や「植民地支配」を公式に謝罪
⇒歴代政権に引き継がれながら、政府の公式見解として扱われている
1996年1月、疲れきった村山は辞意を表明
⇒あとを継いだ自民党の橋本龍太郎内閣でも連立は維持された
1996年10月の総選挙で復調した自民党は、社会党、さきがけを事実上切り、単独政権を発足
⇒自民党との連立政権で党再生を目指したが、自民党にいいように使われ、捨てられた
1996年1月に社会党は社会民主党に名称を変更(新党としてスタート)
⇒合併案や新党参加構想の末、所属国会議員の多くが党を去り、社民党に残ったのは約半数だった
長い「冬」とつかの間の「春」
2001年の参院選でも敗北を喫した社民党
⇒自社さ連立政権以来の旧幹部が退いた
若返りを図るため、幹事長に福島みずほ、政審会長に辻本清美など、市民派が重要ポストに就いた
⇒反転構成の機会はなく、逆に身内のスキャンダルでさらに窮地に追い込まれる
2002年3月に辻本が秘書給与問題で議員辞職し、その後、詐欺容疑で警視庁に逮捕される事件が起こる
小泉首相の北朝鮮電撃訪問で一気に脚光を浴びることになった拉致事件
⇒社民党は朝鮮労働党との関係が問題視
2003年の総選挙では6議席と惨敗
⇒党首の土井も小選挙区で落選する憂き目をみる
総選挙後に引責辞任した土井のあと、福島が後任に選ばれた
福島は、土建の立場を堅持するとともに、消費者問題や環境問題などに関心のある幅広い層への浸透を図る
2006年の党大会で、社会民主主義宣言が採択され、村山首相が打ち出した自衛隊合憲・容認路線は修正された
2007年の参院選では、「憲法9条」と「年金」に絞った選挙戦を展開
⇒幹事長を含め2議席確保の参議院計5議席にとどまる
民主党が圧勝した2009年8月の総選挙後、社民党は、国民新党と共に政策合意に基づく3等連立政権に参加
鳩山内閣で、党首の福島みずほは、消費者・少子化担当相としての閣僚入りが決定
福島は2009年12月の社民党党首選挙で米軍普天間基地の国外や県外への移設を強く主張し、当選
普天間基地代替施設移設問題をめぐっては、福島は鳩山内閣が県内に移設を決定した場合、「社民党にとっても、私にとっても、重大な決意をしなければならない」と述べた。
⇒しかし、鳩山首相は県内移設の内容で政府案をまとめた
同意の署名を求められた福島は拒否
⇒消費者・少子化担当特命大臣を罷免⇒社民党は再び連立離脱の道を歩んだ
下野したあとに党勢を回復させるめぼしい材料は見つかっていない